昭和52年02月04日 朝の御理解



 御理解 第81節
 「氏子、十里の坂を九里半登っても、安心してはならぬぞ。十里を登り切って向こうへおりたら、それで安心じゃ。気を緩めると、すぐに後へもどるぞ。」

 一週間も前でしたでしょうか、直方地区の共励会に、熱心に出てみえる方で、何とかさん、大塚さんか何か言う方です。奥さんが、そこひで目が見えない。それで加藤さんでしたか。ああ加藤さん。大塚さんはあの癌の方でしたかね。はいそうでした。お願いを熱心になさっておられたらもうこの、合楽で頂かれる御理解をテ-プで、もうずうっと頂き通しに頂いて、あのおかげを頂いた方です。ある朝お夢の中に八百万の神々が、手術をするぞというお知らせを頂かれた。
 目が覚めたらもうすっきりこうしておるのでもう、びっくりされてね。まあおかげを頂いたという方なんです。それがこの前の先月の二十三日の月次祭でしょうか。誘われてまあ月次祭に、いつもお参りになりますから、皆さんが誘われてお参りしようと言うたところが、「もう、今度は御無礼しよう。」ち言わしゃった。そしたら今度は早速また、目が大変悪くなった。しかも痛み出した。それで慌てて病院にま専門の病院に、福岡のほうへ行かれたそうですが。
 これは暫く入院しなければいけないと言う事になって、入院の手続きまでとった。そしてその何時も頂いておるおかげの泉を、ふっと開かせて頂いたら、この八十一節だったそうです。本当に例えば十里の坂を、九里半登っても安心してはならない。もう後一押しと言う所で、その自分達が御無礼になった、安心しておった事に気付かせて頂いて、入院手続きをしておったのを断って帰ってきた。そして親子で息子さんと、そのご主人になる二人が早速あくる日、ここにお詫びに出て見えました。
 もうそら真剣なお詫びでした。同時にその息子さんもやっぱり目が悪いらしいんですよ。そのお願いもあって息子さんと二人でお詫びに出てき、またお願いをなさいました。もう本当にあのこの辺のところがね、これがもう身体の上のことですから、はっきり分かるのですけれども、これが一つの問題であるとか、又は経済の問題であるとかと、他の問題になってくると、その目の目算に分からないのです。痛くなったり見えんごつなったりするわけじゃないからね。
 けれども油断したらいつの間にか、また元に戻ってしまっておる。いつの間にかまたその事で、難儀を繰り返さんならんと言う様な事は、確かに九里半、十里の坂を九里半登って、やれやれが出来ておるから、そういう風におかげがまただらだらと後へ戻ってしまうのです。こりゃ信心させて頂く者は、本当に一つ心掛けておかなければなりませんですね。おかげでこの二十三日のは、この一日のお月次祭には皆さんでその、直方の方がお礼に出てきております。
 その神様へ例えばそのそういう失敗をしたときでも、次のその信心が、まあ度胸があったわけですね。それもたまたまその、開かせて頂いたおかげの泉が、やはりこの八十一節であった。そこでほっと入院手続きまでとっておるのを断って帰って、神様にお詫びに出てきたと言う所で、またおかげがこう次に穂が出来るような感じですね。けども失敗せんなら、まあだ良いわけですよね。
 もう本当にあのもう、手遅れと言う様な事を言いますが、もう信心も手遅れになったら駄目の事があるんですからね、油断をしちゃならんです。そういう例はいくらもあります。そこで私は思うんですけれども、そういう失敗をせんで済むような信心を、常日頃、頂いておかなければならんと言う事です。昨日、学院から手紙が参っておりました。それをここで、読ませていただきましたら、今度学院生が修行に出ておる、今のここにも三名見えております。
 ですからそういう修行に出ておるところの、預かっておるところの教会長が、十名ぐらいでしょうか、もうそれも泉尾の先生とか、甘木の先生とか、福岡の吉木先生とか、そういうその歴々の先生方ばっかり、もうとにかく皆んなが修行に行きたいと言う様な程しの教会ですから、もうやはりゴヒレイの輝く教会に、皆が求めて出ますわけですからね。それで私もお目にかかったことのない、それでもお目にかかりたい。一遍はお目にかかりたいと言う様な先生方が、何人もおられるわけです。
 ですからあの出席するかしないかを、あの通知をせんならんから、これは神様にお願いをしてから、やらせて頂くのならやらせて頂こうと思うて、今朝私お願いをさせて頂いておりましたら、副教会長を出すように頂くんですから、まあ私は行けないわけです。けれどもその預かって頂いて、学院生をご覧にな、教導して頂いて、何をどう感じられたかと言う事を聴きたいというのが主なんです。これからの学院、御道の教師を、段々お取立てを頂かねばならない、またお役に立つ教師に育たなければならない。
 ために先生が十分力を使ってくださって、どう感じられただろうかという様な事を持ち寄って、話し合う会議らしいんです。それで私は今日その事を、行かれんならばことずけだけでもしておかなければならないからと思って、神様にその事をお願いさせて頂きましたら、ここに只今修行に来ておる三名だけではなくて、まああっちこっちから沢山来ます。この頃からも学院生が五名来ておりましたでしょう。
 ようにその又は教会の先生方が、みんな見えますけれども、そのどう言う事を願って、合楽に修行に来るかというと、霊徳を受けたいとかね、又はこのお取次ぎをさせて頂く、その、お取次ぎの仕方ですかね。いうならばお取次ぎのテクニックとでも申しましょうか。と言った様なものをです。御道の教師としてどういう心掛けでおったら良いでしょうかと。とにかく人が助かることのためにと言うような願いの人達が多いですね。だから私はそういう人達には、あの先ずはね自分自身が助かることのためにと言うて。
 合楽に来る人が少ないね。合楽の模様を見に来たり、又はほんなら私のお取次ぎの様子を見たり、又は信者の動向を見たり。ほんなら合楽のいうならば私は、そう気が付かなかったけれども、このごろあちらは広島ですかね。あちらの青年教師の方達が、ここに見えてから、それのここでのまあ色々研修されたことを、合楽はどう見ておるかというと、合楽は組織が素晴らしいと言う事を、あの一冊のあのパンフレットのようなものに纏めてあるのを、この頃から見せて頂いたんですけれども。
 聞いてみてから、本当なるほどそれはそうだなあという風に思ったんですけれどもね。その信者のそれぞれの、まあ例えば、菊栄会とか黄揚会とか、又は松栄会とか、美登里会とかという特殊なその、青年会とか壮年会とかその、マルショウとかと言った様な会のほかに、そのなかにまたそういう、特殊な信心をする人達のグループがあって、これがその、例えば菊栄会は親先生を中心に、松栄会は若先生を中心に、黄揚会は二男の光昭先生を中心に、美登里会は奥様を中心にと言った様な説明がしてありまして。
 ほんなこつそうかなと思うてから、あの他所の人達が、その言うておるのを見てね、なるほどほんなら、合楽の場合は、それを作ろうとして作ったのではないと言う事。いつの間にかそういう組織なら組織とは言われないかも知れないけれども、そういう信心機構と言った様なものが、合楽では自然に出来てきたというわけですけれども、そういうふうな、いうなら見方だけしかして帰らないわけです。
 合楽では組織作りが見事だ。その組織で信者が皆こう、まあ一致団結する一丸となって教会を中心にした、信心を進めておると言った様な所だけは、見て行くわけなんです。取られるとしか言えないわけなんですよねえ。ですからそう言う事ではなくて、私はどうでも一つあのほんなら、ここで私自身が助かることに一生懸命なのですから、また私のいうならば助かっておる程度が、合楽のそのままゴヒレイなのですから。
 私が助かればね。私が力が言うなら出来れば、それだけのほんなら、信者の難儀なら難儀でも持ってやる事が出来るから、合楽の信者信奉者が助かっておるんですから。先ずは自分が助かる事の手立てをいうならば学院でも、ただ先生としての教養とか。御道の教師は、こういうほんなら宗教一般なら一般でもです。どんな事にでも通じておらなければならない。概念的ないうなら、教師の教養と言った様な事だけを詰め込むのではなくて教えるのではなくて、自分自身が助かるんだよと金光教の信心によって。
 自分自身がだから助からずして人が助かるもんか。その助かるためにはこういう手立てがあるぞ、こういう生き方があるぞ。しかもこういう楽しい有難い生き方があるんだぞという事を教えなければいけないと、私は一言その提言したいという風に、まあお気付けを頂いて思いました。次にはね、あの拝むことの楽しみ。ここの修行生はもう、あの今夕べも遅くここに出てまいりましたら、あの新館が明かりが点いとるから、覗いてみましたら、一生懸命あそこでいうならば、御祈念の稽古をしております。
 言うなら大祓い信行を一生懸命やってる。もう十二時ごろでしたけれどもね。そして何とはなしにこの拝むと言う事の、いうならば楽しさというものが分かってきてるわけです。信心はねもう確かに拝むことですから一言でいうならば。ですからその拝むことが退屈であったり。せからしかったりしたんでは、もう信心成り立ちませんです。しかも場合には時には、拝もうごつないごたる時もあろうけれども、自分の気分の良い時ばかりではないけれども、さあ、それが修行なんです。
 今夜も早う寝たいと思うような時でもです。やはり一生懸命大祓い信行でもさせて頂いておると、もう御神前を離れたく無いごと有難うなって来る。それが楽しいのだ。その有難うなって来ることが楽しいのだ。こら皆さんでもそうです。拝むことの楽しみが、先ず分からなきゃいけない。それから自分自身がいうなら、心が助かることのための手立てを分からせてもらうのが、御理解を頂くと言う事なんです。
 次に頂いた事はね。この素直というね直という字ですね直という字を頂いた。ははあこら信心に素直さが要ると言う事だなと思ったら、神様がその下に点々を打って下さったんです。ははあこら素直じゃなかったばいな。真というばいなと言う事なんです。四神様の御教えの中にも、此の方の信心はねこの道はもう真一つだと。真で成就せぬ事ないと断言しておられます。ほんなら真とは真とはと言う事を、皆が追求するわけなんですけれども、な真と第一その根本が素直でなからなければ駄目だと言う事です。
 どんなに真を表したといっても、心が曲がっておったり素直でなかったら、もう駄目なんだ。師に勿論これは神様へ向けての心でしょう。そら人から見てもあの人は素直だと言われるほうが良いけれども、神様がご覧になっての素直さがなからなきゃいけない。神様の仰せならば。例えば。泣く泣くでもそれに「はい」という心が素直なんです。その素直な心が、先ず根本であってそれに点々を打つと言う事は、どう言う事だろう。一つの点はいうならば、お参りと言う事であるかも知れません。
 一つの点は御用であるかも知れません。これは銘々でそこを頂いたら良い。私は先ずお参りと御用だと思います。お参りは形に現さなければなりません。御用もやはり形に現さなければなりません。それが真だと言うのです。私は今日はこの事を頂いて、これはもう、本当にもう金光様の信心の、一つの決め手だと思いました。素直な心でお参りすることに、有難いものを感じさせて貰う。同時に御用をさせて頂くと言う事に、有難い心が湧いてくるような心。それが纏めてみると真だと言うことになるのです。
 いうならば今の若い方たちは、昨日も梅の実会でしたから、ここの学院生もそれから、修行生も皆一緒にお話をさせて頂きました。なかでどうしても今の若い人たちは行儀が悪いよという話からでしたけれどね。そういう意味で西岡先生たちは、やっぱ大正生まれだから行儀が良いね。こらもう師匠と例えば、道でこうすりごたっちゃこう、腕組みしてからこうこやって行くとがおる。そげなこっじゃ出来ん。それこそ手ぐらいは下げて、ちったこう頭ぐらいかぁる下げるくらいな気持ちでなからにゃ出来ん。
 と言った様な事から、まあ色々その苦言を呈したわけでしたけれどもね。あのそのなかなかね、神様が認めて下さる素直と、人間が言う素直とはちっと違うようです。昨日も公子先生が発表しておりましたが、私はもううちの主人はもう椛目時代でもう、椛目の中じゃ一番好かじゃったち。それが合楽にきたら一番好きになった。そしたら末永先生が、本当に私はもう誰からでん好かれん性分ですとこういうわけです。そげん言や本当甘木の初代なんかも、あんまり好かれんようなタイプの方じゃったですねと。
 けれどもねもう、神様が惚れ込んで、神様が好きなさる人ですからね。だからこらほんなら、私もやはり人から好かれん。それこそ日本国中の津々浦々の御道の、いわば信奉者やら、先生方がです合楽の事を聞かれて、もう合楽はもうろくな奴じゃないげなと言いよる人もありゃ、合楽は素晴らしいげなと人達もあると言う所がです。結局私が好かれん性分です証拠です。けれどもこちらはもう人から好かれんでん。人からは笑われても、神様からは笑われちゃならんというのが、私の信心です。
 ですから神様から好かれる、言うなら御神徳を得よ、人徳を受けよと仰るから、神徳を受ければ人徳は付いてくる。末永先生がどうか、例えば人から好かれんかも知れんね。神からも嫁さんからも、初めの間は好かれんかったけれども、末永先生の信心を段々分からせて頂くと、やはり信心に惚れ惚れするようなものがあると言う事。だからねまあ人から好かれ、神様から好かれりゃなお良かけれども、先ずはね私はその過程においてです。神様に好かれるというのは。
 神様の前にどのような場合でも、泣く泣くでも「はい」と言えれる心だと思うです。素直です。その素直な心でなら現さなければいかん。点々をこうやって。ほんの僅かなことであっても点々を。それを例えばお参りというならお参りと言うても良いでしょう。御用なら御用に現す。それが真で信心する。真で現したと言う事になるから、成就せん事はないと言った様な事になってくるのです。だから今のその若いいわば、昭和生まれの方達の場合は私共と大分違うところはですね。
 そういう素直さに欠けておるように思うと言う事。拝むことの楽しみを知らないこと。自分が助かること。人が助かることばっかり思うて、自分が助かることにおろそかであるといったような事を挙げて、これを手紙に書いて、そして若先生に持たせようと思います。学院で今度会議があります時に。そしてなら今日の御理解と、なら今日私が頂いた事とを合わせてみてです。
 私どもがどうして九分九厘のところまで行っとって、ならおかげ落とすような事になるかと言うと、そういう素直心とか、いわゆる真とか拝む事の楽しみとか、先ずは自分自身が助からせて頂かなければならんと言う様な信心であったら、絶対ゆるがせにする事はなかろうと私は思います。皆がおかげをもう一押しと言う所で、もうここまで頂いたけん大丈夫と言った様な、やれやれと言う様な、ただおかげ頂きさえすれば良いという生き方は、得てしてそう言う事になるのです。
 そこでなら今日、なら学院に持たせてやろうと思います、この三つの事柄を私共の信心の上に、頂かせて頂く事になったら、揺るぐことはなかろうと思います。自分が先ずは助からなければならない。その助かって行く有難さ、又は拝むことの楽しさ等が出来て来るならばです。そして真とは真とはと、真を追及していくような信心になるなばです。決して信心に油断が出来たり、又は後戻りをするような事はなかろうと思う。ここのところを今日、皆さんに頂いて頂きたいと思います。
   どうぞ。